『織田信長』といえばどんな人物像を思い浮かべますか?歴史上の人物としては、学校で必ず習う超有名人ですよね。実は伝織田信長の絵にちょっとかっこいいなと思っていた私です。
織田信長を知れば知るほど、あらゆる偉業を為(な)した人であったり、戦場において知略(ちりゃく)を張り巡らせたり、かなりカリスマ性に富んだ人なのだとわかります。
反対に、家臣や近隣諸国からは信長の意によっては一族郎党(ろうとう)根絶やしにされるなど、恐れられる一面もあったようですね。怒らせたら怖いけどできる人。そんな印象がある織田信長の子供時代はどうだったのか。気になったので調べてみました!
織田信長ってどんな人物?

『泣かぬなら、泣かせてしまえ、ホトトギス』という言葉を耳にしたことはありますか?これは、信長の短気で激しい気性を表した句となります。怖すぎですよね・・・。
そんな怖〜いイメージがついちゃった信長ですが、実は本当に凄い人物なのですよ!具体的にみていきましょう!
信長は結構すごい人物だった!?
織田信長の生きた時代は、ちょうど長きに渡って繰り広げられてきた戦乱の終わりでした。長い戦国の世、人々は疲れ切り、諸外国では海を越えて領土を広げていく動きがありました。
日本は早々に統一をしなければ、そうした列強(れっきょう)の波に飲み込まれる、緊迫(きんぱく)した時代だったのです。力をつけた信長は、その時代背景を深く考えていた人物でした。
そんな信長が手掛けた事業をいくつか挙げていきます。皆さんもよく知っているものも多いのでは?
楽市楽座(らくいちらくざ)
商人が商売をするためには、必ず『座』という組合に加盟しなければなりませんでした。そこで信長はこの『座』というものを廃止して、誰でも自由に商売ができるようにしたのです。いわゆる独占企業の禁止というものですね。
そして『楽座』の他に、自身の領だけでなく配下の城下町に『楽市令』を布(し)き、城下においての自由市場を許しました。さらに宿を城下町で取らせることで経済を回らせることにしたのです。
この楽市楽座を布くことの効果は2つありました。まず、城下では誰でも自由取引市場に参加できることで、町の経済を活性化させること。そして、当時の経済や金融の中心になっていた『寺社(じしゃ)』の勢力を落とす効果がありました。宗教は宗教に集中しなさいってことですね。
鉄砲の大量導入により戦を短期間で終わらせた
当時高級だった鉄砲を大量に手にし、戦へと活用しました。信長は商売の中心地である大坂の『堺の港』を支配下に収め、楽市楽座で潤沢(じゅんたく)な資金を得ていたため、大量購入が可能だったようです。
当時は『米』に価値が置かれ、戦の時期は米の収穫時期を外すなどのルールが存在していました。また武士よりも農民が大半を占めるため、数合わせに農民が戦に行くことも。
信長の鉄砲政策により、農民は農業に集中させ、かつ時期を考えずに早期決着をつけることとなりました。これにより新しい戦(いくさ)方法に加え、戦国時代の終わりを早めることになったのです。
無駄な関所の廃止
国の要所に関所が置かれ、通行人に税を払わせていた当時。関所には検問(けんもん)と防衛という重要な役割がありましたが、その反面、関所でのチェックに長い時間を要し、必要な場所での商いが滞(とどこお)るなど支障がありました。
これだけではそれほど厳しくする必要あるの?と思いそうですが、この関所、1箇所2箇所ではないのです。地方から都市部にかけて何百ともあるのですよ。そのため仕入れた物資を目的地に届けるのにどれほどかかるか、想像しただけでも嫌になりそうですね。
せっかく城下町で楽市楽座を布いても、肝心の物資がこなければ経済は回りません。そのため、信長は無駄な関所を廃止して、町での経済を回すことに集中させたのです。そのついでに道路整備にも着手して経済への動きを活発化させたのでした。
身分問わず、有能な人材は登用(とうよう)した
例えば足軽からは後の豊臣秀吉、出自(しゅつじ)がわからないとされる滝川一益(いちます)などを登用した信長。その配下には、戦・交渉・話術などに長けている人たちが多かったようです。
先祖代々から仕えることが当たり前だった時代だからこそ、埋もれがちだった『才』ある人物を重宝することは、私としてはかなりの偉業だと思います。
活躍したい、新しい世に貢献したい、そして何よりこの疲れ切った時代を終わらせたい。そうした想いがある人がいてもおかしくありません。信長はその想いを正面から受け止められる器があったのでしょうね。
一般的な信長像
それでも信長は皆さんにとってどのような印象を抱くのでしょうか。むしろ当時はどんな印象をもたれたのでしょう?まとめてみました。
- 戦国時代の超有名な武将
- 天下統一まであと少しで裏切られた人物
- 夢破れた哀(あわ)れな人
- 徳川家康・豊臣秀吉と並び、戦国三英傑(えいけつ)の一人
- 『第六天魔王』
- 『天下の大うつけ者』
そのほとんどは、大人になってから目覚しく活躍した信長のことを伝えていますね。ただ、最後の『天下の大うつけ者』だけが信長の子供時代を伝えるものとなります。
そんな天下統一まで目前と迫るほどの人物の子供時代って想像できますか?『大うつけ者』ってどんなことを言われているの?と気になったので、次はそのことについて見ていきましょう!
「うつけ」と呼ばれた織田信長の子供時代と性格

『尾張(おわり)のうつけ者』と呼ばれた織田信長。今更ながら簡単に生まれについて紹介でも致しましょう。
生まれは分家の嫡男(ちゃくなん)
信長は尾張国、今で言うと愛知県あたりの分家の嫡男として1534年に生まれました。本来は三男(次男説もあり)でしたが、正室(本妻)が生んだ子だったため、跡取(あととり)とされたのです。
幼名は『吉法師(きっぽうし)』と言い、2歳で那古野(なごや)城の城主となります。しかし、そんなサラブレッド信長の子供時代、特に青年期まではなんとも常識を脱していたようなのです。
旧臣、太田牛一(ぎゅういち)の記録
その証明となる行動を記したのは、信長の子供時代から仕えるようになった太田牛一の『信長公記(しんちょうこうき)』となります。子供時代〜青年時代の信長はどんな人物だったのか、みてみましょう!
- 乳児の際に乳母の乳首を噛みちぎっては何人も交代させていた。
- 奇抜(きばつ)な格好をしていた。
具体的には、入浴時に着る湯帷子(ゆかたびら)を着て、まげを結わず、派手な紐で結び、帯の代わりに腰に縄を巻いて瓢箪(ひょうたん)をいくつもじゃらじゃら身につけていた。
- 食事の時は人のものを盗み食いしていた。
- 寺での学問を習うときも不真面目な態度だった。
当時、寺は学校のような役割を担っていた。
- 身分に限らず、町で若者と遊んでいた。
- 柿や栗、瓜などを食べながら町を歩く。
当時は行儀の悪い行動と思われていた。
厳格さや礼節を重んじる武士社会において、信長のこうしたやんちゃぶりは非常に変わっていて、常識外れでした。そうした意味を込めて信長を『うつけ』もしくは『傾奇者(かぶきもの)』と呼んでいたようです。
信長が、そうした言葉で呼ばれるようになった背景は、18歳の時に父が急死し、その葬儀の時に起こした出来事が原因でした。信長のこのエピソードは、まさに『うつけ』であり、近隣国にも広まったのです。
父の葬儀に起こした奇行
信長は父の葬儀の際、喪主にも関わらず葬式に遅れてやってきました。そして喪服ではなく、いつものように奇抜な格好のままやってきた信長は、さらに父の位牌(いはい)に抹香(まっこう)を投げつけたのです。
この話は近隣にまで伝わり、信長の評判は悪くなることとなったのです。しかし、一方で信長には『ある才能』が子供時代から備わっていました。
上に立つ者の才は見えた?
信長14歳、初陣(ういじん)の時です。初陣とは、初めて戦に赴くことを指し、信長の場合は初めて司令塔となった戦ということになりますね。
そこで信長は、今川勢3,000人VS信長勢800人という圧倒的不利の中、教育係の平手政秀(ひらてまさひで)の反対を押し切ります。信長は風の強い日に一気に今川勢に攻め込み、火を放って完全勝利を収めました。
この頃から、機転に加え信長の指揮系統が高く、まさに『上に立つ者』の風格があったことがわかります。不利を利に変えるなんて、そうそうできる事ではありません。カッコ良すぎますね信長さん。
教育係の死

それでも『うつけ』と呼ばれる奇行を止めることもせずに過ごしていた信長。父の葬儀後、織田家の跡を継いでも変わることがなかったのです。
そして、一番にそのことを嘆いたのは教育係の平手政秀でした。平手政秀は自分のせいで信長は奇行に走ったと思い自害します。自分の死が、信長の奇行を止める最後の砦(とりで)となるように願いながら・・・。
平手政秀の願いは叶いました。誰よりも信長の側にいた家臣の死。信長は深く自身の行いを反省し、その頃から奇行を止めていきました。そして、天下統一へと歩みを進めることとなったのです。
「うつけ」と呼ばれた男とは?
天下統一を目指した男、信長の軌跡(きせき)を私たちはよく知っていますね。ただ、幼少時代になぜ『うつけ』と呼ばれるに至る奇行に走ったのか?本人だけにしかわかりませんがいくつかの理由が考えられます。
一つ、信長の母が後から生まれた弟しか可愛がらなかったから。一つ、信長の生まれた尾張近辺には有力な武将に囲まれており、幼い頃から彼らに負けない力をつけるための期待がプレッシャーとなったから。要はグレたということですね。
そうしたことが考えられると、子供時代の信長が『なんだか誰かに構ってほしいただの子供に見えて』きますね。ただ、この子供時代の経験があったからこそ、大人の決められた社会に染まることなく、時代を変える行動力となったのでしょうね。
まとめ
- 次々と画期的な政策を起こし、経済や世の中の動きを変えた。
- 後の世に広まるほど超有名人となるが、子供時代は『大うつけ者』とあだ名されていた。
- 様々な奇行がある中でも、戦を通してカリスマ性があった。
- 父の死、信頼していた家臣の死をきっかけに奇行を止める。
- 天下統一を目指すも、夢を目前に潰(つい)えてしまった。
信長は、長き戦国の時代を終わらせた先駆けであり、その未来を見通す目と海外ともやり取りする視野の広さからも、新しい時代の変換期をもたらしました。しかしながら、信長の子供時代を追うと、歴史で習った偉業とは別の顔を持っていることがわかりました。
『大うつけ者』と呼ばれた男の子供時代は、ただ一人、世の中の不条理に対して抗議していた姿かもしれません。それは『織田信長』となった時にも変わらずあったかと思います。当時は画期的すぎる発想は、実力を示さなければ行動に移せないものばかりでした。
そのため、彼は時代の最先端にいましたが、時代が彼の考えに追いつけなかったのかもしれません。だからこそ、もし信長が天下統一していたならば、日本は大きく変わっていたかと思えてなりませんね。
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