あなたは対馬丸(つしままる)という船をご存じですか?戦時中に運航(うんこう)していた貨物船(かもつせん)で、アメリカ海軍のボーフィン号という潜水艦(せんすいかん)によって、沈没(ちんぼつ)させられた船となります。
この沈没劇は対馬丸事件と呼ばれ、現代にも広く伝わっております。今回はそんな事件について学びつつ、平和の大切さを再確認していきます!
事件の背景と対馬丸

対馬丸事件について学ぶ前に、事件が起きた背景(はいけい)と、対馬丸そのものについてみていきましょう。
事件が起きた背景
事件が起きたのは1944年8月22日の22時23分でした。同年にはサイパンの戦いという、事件に大きく影響(えいきょう)する出来事がありました。
- 太平洋戦争の最中(さなか)に開かれた戦い
- 6月15日から7月9日にかけて行われた日本軍とアメリカ軍の戦闘
- 日本軍が約31,000人に対して、アメリカ軍は約66,000人という倍以上の戦力差
- 戦闘の結果、日本軍は壊滅(かいめつ)し、ほとんどの人が戦死
この戦いの結果、アメリカ軍はサイパン島を占領(せんりょう)することに成功します。「なぜ、サイパン島の占領が事件に大きく影響するの?」と思いますよね。この一幕(ひとまく)が、アメリカ軍にもたらしたものが関わってくるのです!
サイパン島での勝利がアメリカにもたらしたもの
サイパンの戦いに勝利する前、日本に一番近いアメリカ軍のエリアは中国の成都(せいと)でした。ここから爆撃機(ばくげきき)を日本に飛ばした場合、燃料と距離の問題で九州までしか爆撃することができなかったのですが、サイパン島を得たことによって事情が変わりました。
それは、サイパン含むマリアナ諸島(しょとう)に、航空基地(こうくうきち)を建設することができたことです。これにより、アメリカ軍は日本全土を爆撃できるようになるという絶大(ぜつだい)な効果を得ました。全国が攻撃対象とは、とても恐ろしいですね!
サイパン島での敗北が日本にもたらしたもの
一方で、サイパンで敗戦することにより、日本は非常に厳しい状況となります。日本全土が攻撃対象になるのですから、当然(とうぜん)ですよね。なんとかして食い止めたい日本は、アメリカ軍が南から北上してくると見越(みこ)して、沖縄にて迎え撃つ作戦を取りました!
戦いの場を沖縄に定めた後、日本政府は沖縄県庁に対して、奄美大島(あまみおおしま)や沖縄県に住んでいるお年寄り、子ども、女性を島外へと疎開(そかい)させるように命令します。約8万人を本土へと移し、約2万人を台湾へと移す予定だったそうです。
しかし疎開に渋る住民も多く、疎開計画は難航しました。むりやり学校単位で指名して疎開させるという力業(ちからわざ)も使用されました。意志と関係なく、無理やり移動させられるのですから、当時指名された人のことを思うと恐いですよね!
なぜ疎開を進めたのか
「なぜ、わざわざ本土や台湾に移動させたの?」と思った方もいると思います。そこには、沖縄の食糧事情(しょくりょうじじょう)が関係していました。当時の沖縄は、それほど裕福な島ではなかったのです。
アメリカ軍と戦うとなると、たくさんの兵士を沖縄へと送る必要があります。しかし、沖縄は裕福な島ではなかったので、一方的に兵士を送ると食料難が起こる可能性がありました。それを回避する為に考えられたのが、疎開だったわけです!
まずは、戦うことのできない人達と、将来日本の力となる子供を沖縄から出しちゃおうというわけですね!つまり、人員の交換(こうかん)です。
対馬丸とナモ103船団
ここまでの経緯(けいい)があった上で、いよいよ対馬丸が登場します!対馬丸の目的は2つありました。それは、沖縄にいる民間人を本土へと移し、本土にいる兵士を沖縄へ移すことです。ところで、対馬丸事件という名前から疎開には、対馬丸のみ利用されたと感じませんか?
実際には、暁空丸(ぎょうくうまる)と和浦丸(かずうらまる)という貨物船に加え、護衛艦(ごえいかん)として宇治(うじ)と蓮(はす)の2隻(せき)がつきました。5隻はナモ103船団と呼ばれていたんですよ。護衛艦をのぞき、各船の乗員割合は以下となります。
- 対馬丸:一般疎開者と学童疎開者+付添い人で約1,600名
- 暁空丸:一般疎開者のみで約1,400名
- 和浦丸:学童疎開者のみで約1,500名
ちなみに対馬丸ですが、半数の800名ほどが学童だったとされています。それにしても、事件の名前から対馬丸のみの作戦かと思いきや、5隻で約4,500名もの疎開者を運んでいたとは、大掛かりな作戦だったと驚きますね!
事件の経緯(いきさつ)

ここからは、実際に事件についてみていきましょう!
事件が大きな話題となった理由
事件はボーフィン号というアメリカ軍の潜水艦が、対馬丸という疎開中だった民間人の船を攻撃し、沈没させたというものです。この事件が大きな話題となったことには、いくつかの要因がありました。
- 犠牲者数の多さと学童の割合
- 民間人の乗った船を攻撃したという事実
- 対馬丸の航路
- 事件後の対応
1と2に関しては、イメージしやすいのではないでしょうか。一方で、3と4はイメージがつきにくい要因かもしれませんね。それぞれの要因について、詳しくみていきましょう。
犠牲者数の多さと学童の割合
この事件が注目されたポイントとして、まずは犠牲者数の多さがあげられます。事件により亡くなった人の数は、2016年8月時点で判明しているだけでも1,482名いたとされています。対馬丸に乗っていたのが約1,600人なので、なんと93%もの人が亡くなったことになるわけですね。
しかも亡くなった人の内訳をみたとき、784名は学童だったのです。対馬丸に乗船した学童の数はおよそ800名でしたよね?つまり、98%もの学童が事件によって命を失われたのです!未来ある子供達の命が多く失われたと思うと、言葉がでませんね・・・。
民間人の乗った船を攻撃したという事実
あなたは、戦時国際法(せんじこくさいほう)というものをご存じですか?戦争時でも、各国の軍事組織が遵守(じゅんしゅ)すべき義務(ぎむ)を明文化した国際法となります。難しく感じますが、最低限いくつかのルールを設けて戦争時も守りましょうという決まりごとですね。
その中に、民間人を対象とした攻撃を禁止するものがあります。この事件で犠牲(ぎせい)となったのは民間人がほとんどで、半数近くは幼い子供でした。その為、この法に違反するのではないかという点が、問題になったわけです。
対馬丸の航路
対馬丸は、沖縄から長崎へと向かっていました。しかし、航路の選択肢が1つだけだったのではありません!事件当時、直線ルートで進むかジグザクルートで進むかという2つの航路で、話し合いが進みました。
対馬丸の船長はアメリカ軍の攻撃を警戒(けいかい)して、ジグザクルートを進言(しんげん)したそうです。しかし、同乗していた陸軍将校(りくぐんしょうこう)の指示に従(したが)うことになり、直線ルートが選ばれました。
結果論(けっかろん)ではありますが、直線ルートを選んだ対馬丸は格好(かっこう)の標的となり、攻撃されました。「攻撃を警戒した船長の意見に耳を傾けていれば・・・。」と思えてしまいますよね。
事件後の対応
事件後、生き残った人々に対して日本政府は、事件について口外(こうがい)しないように箝口令(かんこうれい)をひきます。サイパン島での敗戦含め当時の日本は苦境(くきょう)にあった為、全体の士気(しき)を落とさない為だったのでしょう。
それにより、事件の犠牲者や生存者に関して詳細な調査は行われませんでした。つまり沖縄にいる遺族(いぞく)には、何が起きたのかが伝わらなかったわけです。ある日突然大切な人がいなくなってしまったのですから、当時の遺族としてはパニックだったでしょう・・・。
タイミングが悪く、事件後の10月10日には那覇(なは)を中心に大空襲があり、翌年には地上戦も繰り広げられました。結果的に、対馬丸事件が世間に広がるのは事件発生からしばらく経ってからのこととなります。
死者が増えた原因
ところで、事件では対馬丸に乗船していた93%もの人が亡くなったわけですが、「なぜこれだけ多くの人が亡くなったんだろう?」と思った人も、いるのではないでしょうか。事件当時、対馬丸のまわりには、ボーフィン号を除いても日本の船が4隻もいたのです。
この事件では、死者数が増えてしまう悲しい要因がありました。それは、事件発生時刻の遅さと乗客のいた位置に関係します。前者はイメージがつきますが、後者はピンとこないですよね?それぞれについて、詳しくみていきましょう!
事件発生時刻の遅さ
事件は22日の深夜に発生したので、辺りは非常に暗い状況でした。その為、二次被害の影響を考慮して、4隻は救助よりも退避(たいひ)が優先されたそうです。救助活動が開始されたのは翌23日のことでした。事件発生から救助開始までの時間が、生存者数の少なさに繋がったわけです。
また、船に乗っていた多くは幼い子供でした。事件が起きた際、すでに寝ている子供が多かったようです。生き残った人の話によると、引率者(いんそつしゃ)が懸命(けんめい)に起こして回ったそうですが、避難の初動(しょどう)には遅れが発生したそうです。
もちろん事件自体に問題があります。しかし「発生時刻が明るい日中であったのなら、生存者は増えていたかもしれない・・・。」と思うと、悔(く)やまれますよね。
乗客のいた位置
対馬丸は元々が貨物船ということもあり、一般的な客船のような設計にはなっていませんでした。その為、大勢の人が乗り込むとなると詰め込むような形となります。乗り込んだ人のほとんどは、十分な避難経路の確保されていない船倉(せんそう)にいたそうです。
ただでさえ、船には幼い子供が多く事件発生時は混乱したことでしょう。その上で、十分な避難経路が確保されていないとなると、被害が増えてしまうことは必然といえます。
アメリカ軍は、なぜ攻撃したのか
「なぜ民間人の乗った船を攻撃したの?」そう思う人もいますよね?多くの幼い子供がボーフィン号の攻撃によって命を失ったと聞けば、アメリカ軍に問題があったように感じます。しかし、物事はそんなに単純ではないのです。
事件の際、ボーフィン号は対馬丸が疎開船だということを知りませんでした。なぜなら、見た目では民間船と戦争に必要な物資を送る輸送船との区別がつかないからです。区別がつかない以上、戦争中という状況を加味すると、攻撃する他なかったわけですね。
当時のボーフィン号乗組員の話だと、対馬丸に多くの子供たちが乗っていたと知ったのは、戦争が終わって長い月日が経った後のことだったようです。事前にわかっていたならば、避けることのできた事件だったのかもしれませんね。
事件の問題点
結果として多くの子供たちの命を奪ったボーフィン号の攻撃はよくなかったでしょう。しかし、この事件における問題点は、それだけではありません。疎開にあたっての日本軍の判断にも、問題はあったのです。
1つ目は疎開に際して、軍艦を利用しなかった点です。当時の状況から「できなかった」と表現することが正しいのですが、疎開の際に沖縄の人々は軍艦を希望していたそうです。しかし、実際に利用されたのは対馬丸を含めた3隻の貨物船でした。
2つ目は、各国に対して対馬丸が民間船だと伝えなかった点です。戦時国際法の中には「病院船などの非軍事的な任務を担う船舶は特別な保護を受けているため攻撃と拿捕(だほ)が免除される」というものがあります。これを利用すれば、そもそも攻撃されない未来もあったのです。
謝罪の有無と、事件後の進展
アメリカでは、そもそも対馬丸が民間船という認識がなかった為、事件について謝罪などはありませんでした。一方で日本としても、事件自体に箝口令をひいたくらいですから、戦後に顧(かえり)みられることがなかったというのが事実です。
そんな中、事件に転機が訪れました。1997年12月、対馬丸の船体が水深870メートルの海底にあることがわかったのです!遺族の立場からすると、それまでは実際に沈んだのかどうかも、確証がもてなかったのです。この発見は、喜びと悲しみを併せ持った知らせだったと思われますね・・・。
船が見つかると、当然ですが船を引き揚げる声があがりました。しかし、事件が起きてから53年もの月日が経過しています。船は腐食(ふしょく)などの劣化(れっか)が進み、引き揚げは不可能という結論にいたりました。
記念館の設立
引き揚げることができない対馬丸に対して、政府が代案としてあげたものが記念館の設立でした。記念館の用地は那覇市(なはし)が提供し、建設費は国から補助金がでることになります。記念館は2004年に完成し、対馬丸記念館と名づけられました。
コロナの影響で一時期はクローズしていましたが、2020年5月22日より再オープンしております。施設では、事前予約を行えば語り部による事件の講話を聴くことができます。また、全2階の施設は約30分から1時間で見学可能なんですよ!
ちなみに事件を起こしたボーフィン号ですが、アメリカのパールハーバーにボーフィン潜水艦博物館という施設があります。実際の潜水艦の中を見学することができるので、対馬丸事件について学んだ上で見学すると、知らないときとは異なった見方ができるかもしれませんね!
まとめ
- 対馬丸はボーフィン号によって沈没させられた船である
- 乗っていた多くの子供たちが亡くなった
- アメリカ軍は民間船と知って攻撃したわけではない
- 事件前後の日本軍の対応にも問題があった
- 憎むべきは戦争そのものである
ボーフィン号によって、多くの子供たちを乗せた対馬丸は沈没させられました。この事実は変わりません。しかし、戦争中という状況下では民間船と輸送船の判別をすることは難しく、実際にボーフィン号の乗組員は、民間船であることを知りませんでした。
戦争という状況が、アメリカと日本どちらからも余裕を奪(うば)ってしまい、事件へと繋がったと言えるでしょう。どちらにしても、犠牲となった被害者と遺族の立場になって対応してほしかったものですね。
戦争は悲しく、犠牲になる多くは一般人です。世界から争いを取り除くことは難しいですが、相手を攻撃する前に、自分の大切な人を思い浮かべることは大切ですね。自分にもいるように、相手にも大切な人がいると思うことができれば、少しは争いが減っていくのではないでしょうか。
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